日本と中国の関係は、古くから文化的、経済的に密接な繋がりを持ってきました。その中でも、学問や知識の交流
は特に重要な役割を果たしており、初めて中国へ留学した日本人が果たした役割は大きな歴史的意義を持っています。本稿では、日本から初めて中国へ留学した
人物とその影響について詳述します。
初めての日本人留学生:阿倍仲麻呂
日本から初めて中国へ留学した人物として知られるのは、奈良時代の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)です。彼は、
日本の遣唐使として中国に渡り、唐の文化や知識を学びました。阿倍仲麻呂は、唐の都長安(現在の西安)に留まり、当時の最先端の学問や技術を学ぶことを目
的としていました。

仲麻呂は717年に、多治比県守が率いる第9次
遣唐使に同行して遣唐使として中国に渡りそこで唐の都・長安に留まることになります。彼は唐の宮廷に仕え、唐の太学で学び科挙に合格または推挙で登用され、唐の玄宗に仕える。唐名を「朝衡/晁衡」(ちょうこう)とします。725年洛陽の司
経局校書として任官、728年左拾遺、731年左補闕、766年安南節度使と官職を重ね、唐の官僚としても活躍しました。
仲麻呂の留学とその意義
阿倍仲麻呂の中国留学は、日本の文化や知識の発展に大きな影響を与えました。彼が学んだ唐の政治制度、法律、文化は、日本の奈良時
代の国家形成に大きく寄与しました。特に、彼が持ち帰った中国の知識や技術は、日本の律令制度の確立や、天平文化の形成において重要な役割を果たしまし
た。
また、仲麻呂は中国の詩人李白とも親交があり、その詩才は高く評価されました。彼が中国で学んだ詩や文学の影
響は、日本の和歌や漢詩にも反映され、日本文学の発展に寄与しました。
中国留学の試練と帰国
阿倍仲麻呂は中国において多くの栄誉を受けましたが、彼の帰国は実現しませんでした。彼は何度か日本への帰国
を試みましたが、天候や政治的状況によりそれは叶わず、唐で生涯を終えました。その後、仲麻呂の遺体は中国に埋葬されましたが、彼の存在は日本と中国の交
流史において今でも重要な位置を占めています。
李白が作った追悼の七言絶句「哭晁卿衡」
中国語原文: 日本晁卿辞帝都 日本語訳:日本の晁衡卿は帝都長安を離れ
中国語原文: 征帆一片遶蓬壷 日本語訳:帆を張った舟は蓬莱の島々をめぐって行った。
中国語原文: 明月不帰沈碧海 日本語訳:明月のような君は青い海に沈んで帰らず
中国語原文: 白雲愁色満蒼梧 日本語訳:白雲がうかび、愁いが蒼梧に満ちている
仲麻呂の影響とその後の日本人留学
阿倍仲麻呂の中国留学は、後の世代の日本人にとって大きな影響を与えました。彼の留学は、日本人が海外で学ぶ先駆けとなり、その
後、多くの日本人が中国や他の国々へ留学するようになりました。これにより、日本は他国からの知識や技術を積極的に取り入れ、自国の発展に役立てる文化を
形成しました。
また、仲麻呂の経験は、日本における国際交流の重要性を示すものとなり、今日の日本と中国の学術交流の基礎を
築いたとも言えます。
阿倍仲麻呂は、日本から初めて中国へ留学した人物として、日本と中国の歴史に深い足跡を残しました。彼の留学
は、日本の文化的、政治的発展に大きな影響を与え、後の日本人留学生たちの道を切り開きました。彼の生涯と業績は、現在の日本と中国の関係にも深く根付い
ており、学問や文化の交流が国際的な理解を深める力を持つことを示しています。
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